2012年5月5日土曜日

レッドホットチリペッパーズって急死でメンバー交代とか、意見の食い違いで脱退し...

レッドホットチリペッパーズって急死でメンバー交代とか、意見の食い違いで脱退したメンバーがいたりすると聞いたことがあるんですけど、それって本当なんですか?


今は4人グループですが前は何人いたんでしょうか?



メンバーの急死の原因とその名前と、あと他にどういう人がメンバーに参加したのか教えて下さい。(名前も脱退理由も)

お願いします。







Wikipediaで調べたところ、以下のメンバーが、元レッドホットチリペッパーズだそうです。





Wikipedia引用



ギタリスト



アンソニーは「ギタリストの座が安定しないのは、誰もヒレルの穴を埋められないから」とコメントしている。 ジョン・フルシアンテを含めてギタリストの座は数々のメンバーチェンジを経験した。



ヒレル・スロヴァク (Hillel Slovak) (1983年以前, 1985年-1988年)

結成メンバー。セカンドアルバム、サードアルバム作成に参加。ユダヤ系アメリカン。名前の読みはヒレルというよりもハイレルに近い。1988年6月、ヘロイン摂取過多により死亡。アンソニー、フリーの無二の親友であり、そのギタープレイは初期バンドサウンドに彩りを与えた。パンク、メタル的ロックがメインストリームだった当時にファンク的プレイを趣向した、若手白人ギタリストとしては希有の存在と言える。少年期のジョン・フルシアンテの憧れのギターヒーローであり、ヒレルもジョンと同じく絵画が得意だった(4thアルバム母乳の裸女性画は生前にヒレルが描いたもの)。



ジャック・シャーマン (Jack Sherman) (1983年-1985年)

ヒレル・スロヴァクが他のレコード会社へ移籍した際に臨時オーディションで加入、ファーストアルバム作成にも参加した。脱退後も「ハイヤー・グラウンド」のコーラスなどで参加しており親交はあったようだが、後にアンソニーを精神的苦痛により訴える。アンソニーは2006年に出した自伝で初期のバンドを支えてくれた存在として敬意を表している。



デュエイン・“ブラックバード”・マクナイト (Duane 'Blackbird' McKnight) (1988年-1989年)

ヒレルが亡くなった後に加入した黒人ギタリスト。その後すぐ脱退したが、母乳前後のいくつかのEPの曲では、彼がギターを弾いてレコーディングした曲も存在。元はP-Funk周辺で活躍しており現在もジョージ・クリントンバンドの一員。



ザンダー・シュロス (Zander Schloss) (1992年)

日本でフルシアンテが突如脱退した直後、急遽残っていたオーストラリア公演のために声をかけられるが、フリーに「チリペッパーズ向きのプレイではない」と難色を示され四日で解雇。現在ベーシスト、映画俳優として活動。



アリク・マーシャル (Arik Marshall) (1992年-1993年)

Lonnie Marshallと共に兄弟バンド「Marshall Law?」を組んでいたギタリスト。92年のベルギー公演から93年のLA公演まで参加。



ジェス・トビアス (Jess Tobias) (1993年)

アリク脱退後加入。一週間のみ在籍。



デイヴ・ナヴァロ (Dave Navarro) (1993年-1999年)

ジェーンズ・アディクションから加入。 チャド・スミスとはとても仲が良く、メタル、ヘビィロック指向の重厚なサウンドを得意とする彼のプレイも評価が高かったが、アルバム1枚とツアー参加のみで音楽性の違いから脱退した。



ドラマー



ジャック・アイアンズ (Jack Irons) (1983年, 1985年-1988年)

結成メンバー。アンソニー、ヒレル、フリーという無法漢が揃うバンドの中で、他メンバーを抑え(フリーいわく「ジャックが最も家庭的にまともだった」)気遣った存在。ヒレルの死後、親友の死とバンドの存続との狭間で苦悩し、結局はチリ・ペッパーズを脱退。後に精神病院に入院していたところを元クラッシュのジョー・ストラマーに拾われ、音楽界に復帰した。最終的にはパール・ジャムへ移籍したが、引きずった精神病の悪化で脱退。巡り合わせか、奇遇にもサポートドラマーとして働いていた時に同じくサポートギタリストをしていたデイヴ・ナヴァロと同じ仕事をしていたことがある。後にソロアルバムを出し、フリーやエディー・ヴェーダーに感謝の言葉を送った。07年、LAにてこの3人でパール・ジャムの曲を演奏した。



クリフ・マルティネス (Cliff Martinez) (1983年-1989年)

ジャック・アイアンズが他のレコード会社へ移籍した際、ファーストアルバム作成に参加した。その後セカンドアルバム制作にも参加。



D.H.ペリグロ (D.H. Peligro) (1988年-1989年)

元デッド・ケネディーズのメンバー。





補足



Wikiからの引用の場合、文字数が足りないので、名前と生年月日、担当を



アンソニー・キーディス (Anthony Kiedis) - ボーカル担当

1962年11月1日生まれ (1983年-) ミシガン州グランド・ラピッズ出身。バンド結成時からのメンバー。



フリー (Flea, 本名マイケル・バルザリー (Michael Balzary)) - ベース担当

1962年10月16日生まれ (1983年-) オーストラリアのメルボルン出身。同じくバンド結成時からのメンバー。



ジョン・フルシアンテ (John Frusciante) - ギター担当

1971年3月5日生まれ (1989年-1992年, 1999年-) ニューヨーク出身。



チャド・スミス (Chad Smith) - ドラム担当

1961年10月25日生まれ (1989年-)ミネソタ州セント・ポール出身。190cmを超える巨漢。

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